こんにちは。あづみです。
言葉にできないまま、閉じ込めてしまった気持ちはありませんか?
なんだか、悲しい。
なんだか、寂しい。
そんな言葉に出来ないモヤモヤを代弁してくれるのが、石川啄木の代表作「一握の砂」です。
石川啄木といえば、この短歌ですよね。
はたらけどはたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る
引用:「一握の砂」石川啄木
啄木の短歌には、心の動きを詠んだ歌がたくさんあります。
特に落ち込んだときなど、読者の心の代弁をしてくれているような気持ちにさせてくれます。
数ページ読んだだけで、引き込まれるほどの魅力があります
今回の記事では、あなたの気持ちにそっと寄り添う石川啄木の短歌の魅力を深堀していきます!
石川啄木の代表作にみる人生あるある
石川啄木の短歌を読んでいると、「こういうこと、あるある!」と思うことがたくさんあります。
悩み多き(?)学生時代になんとなく読み始めた「一握の砂」でしたが、一気に読めてしまいました。
短歌の言葉って、辞書がないと分からなかったり辞書で調べてもなんとなくでしか分からなかったりということがあります。
でも、啄木の短歌は、分かりやすい言葉で心の表現をしているので、がんばらなくても読めてしまうところが、若かった私にはちょうどよかったのかなと思います。
それだけではなく、モヤモヤした気持ちを代弁してくれている気がするんです。
一例として、共感できる短歌を紹介しますね!
気持ちに寄り添ってくれる歌
何処(いづく)やらむ かすかに虫のなくごとき
こころ細さを
今日もおぼゆる
引用:「一握の砂」石川啄木
なんとなく心細い、なんか元気がでないという気分の日は原因が分からないだけに、少し持て余してしまいます。
そんなときでも、この歌は、そういうこともあるよねと言ってもらっているような安心感がありました。
ふるさとの訛り(なまり)なつかし
停車場の人込みのなかに
そを聴きにゆく
引用:「一握の砂」石川啄木
方言って一瞬でふるさとの懐かしさを連れてきます。
この歌の停車場は、上野駅をさします
ふるさとを離れて暮らしている人なら、「似たようなことしたな」という記憶はありませんか?
思いがけず出会うふるさとのものって、しばらく胸がほんのりあたたかくなるような、幸せな気持ちになりますね。
また、この歌の「聴きにゆく」を「聞き」にゆく(聞こえてくる)のではなく、「聴き」にゆく(耳を傾ける)という漢字を使ったところに、啄木の強い気持ちを感じます。
切ないほどのふるさとへの気持ちが、しみじみ伝わってくるようです。
次に紹介する短歌は、ストレスがたまったときにぴったりでした
「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止(よ)せ止(よ)せ問答
引用:「一握の砂」石川啄木
激しい歌ですよね。
でも、生きるの死ぬのという考えがグルグル回ったとき、何回か読み返しているうちに「ま、いいか」という気持ちになるのが不思議です。
すべてを言わない恋しさ
これは、啄木の短歌に限ったことではないのですが、短歌、俳句、川柳という文学は言葉をそぎ落としていく文学といわれていますよね。
言葉にしないところで、感じるものを味わう楽しみは格別です。
それが恋の歌となると、とてもロマンチックで心に残ります。
思わず、にんまりしてしまいました
・世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳の
今も目にあり
・人がいふ
鬢(びん)のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
引用:「一握の砂」石川啄木
世の中の明るさだけを吸っているような瞳、この言葉だけでその人がどんな人なのかイメージが湧いてくるようです。
こんな風に言われてみたい(笑)
二首めの鬢とは、結い上げた髪の左右の耳のあたりのことです。
ここにほつれ髪があるなんて上品な色香を感じますよね。
書き物をしている女性の髪がほつれている様子をそのまま詠んでいるだけなのに、ため息がでそうです。
きっと啄木は、この女性に見とれているのではないかなと想像しちゃいます。
石川啄木の緻密な編集
今回ふと訪れた図書館で、懐かしさのあまり手にとった啄木の歌集は、朝日新聞出版の「一握の砂」 近藤典彦編 です。
近藤典彦さんは、長年石川啄木の研究をされてきた方で、この本は、一握の砂の初版本の形を残した編集となっています。
また、近藤典彦さんの解説はとても分かりやすく、また啄木の編集の意図や本が出版されるまでの経緯なども書かれていて、改めて啄木の魅力を知ることができました。
啄木の編集の意図は3つあります。
啄木の編集の意図
- 各章に主題となるものがあること
- 各章にプロローグとエピローグのような役割をする歌が置かれていること
- 短歌を三行で表現していること(詩としての表現)
その他にも短歌に込められた想いやできごとについても知ることができて、ただ歌だけを読むときとは違った味わい方ができるので、おすすめです。
Ⅰ. 我を愛する歌
一握の砂の最初の章は、「我を愛する歌」という題名がついています。
我を愛する歌の章
- 一瞬一瞬の姿を短歌という形で表現
- 日常の生活のなかの啄木の心の動きを表現した歌
啄木は、日常にまぎれて忘れてしまうような思いまで短歌に表現しているんですね。
「あの時の自分」に会えたような気持になります。
例えば、こんなシーン、よくありますよね
うぬ惚るる友に
合槌(あいづち)うちてゐぬ
施与(ほどこし)をするごとき心に
引用:「一握の砂」石川啄木
Ⅱ.煙
第二章の「煙」には過去の思い出に関する短歌が収められています。
煙の章
- 煙のように、とらえどころのないものを詠んでいる
- 煙(一) 盛岡中学校時代の思い出、過去の回想
- 煙(二) ふるさとの渋民村への想い、現在の想い
私は煙(二)のふるさとへの想いを詠んだ歌にひかれました。
啄木は、借金問題や学校でストライキを起こしたことで、ふるさとを追われたことを詠んでいます。
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
引用:「一握の砂」 石川啄木
それでも啄木のふるさとへの気持ちは特別なものでした。
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
引用:「一握の砂」石川啄木
「柳あをめる」、泣きたいときの緑色は目にしみますね
そしてエピローグとしての歌
ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
引用:「一握の砂」石川啄木
圧倒的なふるさとへの思慕のようなものを感じました。
この章の苦い思い出の歌、悲しみの歌もすべて、この歌が浄化してくれて、さわやかな印象が残りました。
Ⅲ.秋風のこころよさに
秋の歌ばかりではないのですが、全体が秋の歌のように感じられる章です。
秋風のこころよさに の章
- 秋の歌とそうでない歌があるが、違和感のない配置がしてある
- 歌の雰囲気が古典的
- 友人 金田一京助に対する感謝
言葉が前の章より古典的な言葉になっています
かなしきは
秋風ぞかし
稀に(まれに)のみ湧きし涙の繁(しじ)に流るる
引用:「一握の砂」石川啄木
この年(1908年)啄木は本当に困っていたんですね
わが為(な)さむこと世に尽きて
長き日を
かくしもあはれ物を思ふか
引用:「一握の砂」石川啄木
仕事がうまくいかないときって、何にもできない人間じゃないかと落ち込みますよね。
けれども自分の無力さを、こんな風に言葉を磨いて芸術にまで高められる啄木の短歌の力に、ぐいぐい引き込まれます。
この章のエピローグの歌には、金田一京助の助けで家を追い出されずに済んだ、しみじみとした安心感が伝わってくるようです。
旅の子の
ふるさとに来て眠るがに
げに静かにも冬の来しかな
引用:「一握の砂」石川啄木
忘れがたき人人
ふるさとの渋民村を出てから一年間、北海道で過ごしたときに出会った人たちについての歌が収められています。
忘れがたき人人 の章
- ふるさとの渋民村を追われてから北海道に渡り、釧路を去るまでの歌
- 忘れがたき人人(一) 時系列で人物ごとの短歌になっている
- 忘れがたき人人(二) かつての代用教員時代の同僚 橘智恵子への恋の歌
すべてを言わない恋しさの項でも書きましたが、あの美しい二つの恋の歌はこの章に収められています。
手套(てぶくろ)を脱ぐ時
手套(てぶくろ)を脱ぐ、仕事から帰って手套を脱ぐ時に浮かぶようなとりとめのないことを詠んだ歌が収められています。
手套を脱ぐ時 の章
- リラックスしたときにふと浮かぶようなとりとめのない歌
- 心の動きより、現実に起きている事柄の短歌
- 他の章に比べておおまかな編集
手套(てぶくろ)を脱ぐ手ふと休(や)む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり
引用:「一握の砂」石川啄木
近藤先生によると、「瞬間描写の天才啄木の面目躍如とした傑作」とありました。
私も一番心をひかれた歌です。
思いかけず昔を思い出すことってありますよね。
ほんの数秒でも、その印象はしばらく残っている、その瞬間を逃さない啄木の凄みを感じます。
この章の編集が終わり、「一握の砂」の見本組が届けられた日に、啄木は生後24日目の長男を亡くします。
啄木は編集が済んでいたものの末尾に、長男への挽歌八首を加えました。
最後の一首です。
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり
引用:「一握の砂」石川啄木
石川啄木と短歌
啄木は、家族を養うための仕事より小説家になるという妄想に近い夢を8年間追い続けたため、貧困や借金に悩みました。
その後、自分にとことん向き合うという悪戦苦闘を経て小説をあきらめ、作歌に励みます。
そしてその実力が認められ、朝日歌壇の選者を任されるほどに、その才能を開花させていきます。
近藤先生はその当時のことを次のように解説しています。
啄木は真面目な勤め人に変わった。借金もしなくなった。何よりも重要なのはこの世のあらゆることを直視する人間に変身したことであった。(中略)
啄木は新生した。天才を捨てた時、真の「天才啄木」が誕生したのである。
引用:「一握の砂」石川啄木 近藤典彦編
啄木は、間近にせまった妻の出産費用を稼ぐために、歌の原稿を出版社に持ち込み、20円の原稿料を受け取ります。
そして「一握の砂」は1910年の暮れに出版されました。
その後は体調を崩しがちになり、翌年には入院して闘病生活に入りました。
執筆活動を続けましたが、1912年の4月に亡くなってしまいます
近藤先生の解説の一節です。
24年間の生活のたぐいまれな濃密さと、その半生を愛惜する気持ちと、対象を余すところなく歌にすくい取る事の出来る才能とが、この希有の歌集を生んだのである。
引用:「一握の砂」石川啄木 近藤典彦 編
石川啄木の代表作 まとめ
石川啄木の短歌は、現実に起こっている事柄とその奥にある心の動きを分かりやすく表現しています。
その心の動きはふだん気にもしないほどのことさえも、言葉で表現している啄木の短歌は、読者の気持ちに寄り添ってくれているように感じます。
読んでいると「それ、分かるぅ~」という発見があります
「一握の砂」をパラパラとめくっていると、いつの間にか全部読んでしまった、ということになるかもしれません。
そんなふうに短歌に親しんでくださる方が増えたら、と思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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コメントはこちらからどうぞ
コメント一覧 (2件)
あづみさん、執筆お疲れさまでした!
石川啄木はいくつかの短歌を知っている程度で、実は詳しくは知りません。
もっと言うと、食わず嫌いのような感じです。
しかし、この記事を読んで啄木の短歌は本当にすばらしいと感じました。
記事の構成がよく、読者に優しい文章が難しい印象のある短歌を中和しているのだと思います。
啄木の世界観をストレートに伝わってきました。
金田一京助をはじめ、才能ある大勢の人が彼の才能をうらやみ、称えています。
彼はろくでなしと言われることもありますが、作品は作品としてまっさらな気持ちで読んだほうがいいですね。
すばらしい世界を知らずに生きるところでした。
石川啄木の見た「ふるさとのやま」を、今は私が見ています。
「一握の砂」を手元に置いておこうと思います。
すばらしい記事をありがとうございました。
がーこさん、読んでいただき、ありがとうございます。
がーこさんのコメントに、胸が温かくなりました。
短歌はなじみのない方が多いので心配だっただけに、ほんとうにうれしいです。
いつか、私も「ふるさとのやま」を見に行けたらと思います。
ありがとうございました。